1877年2月
築城名人 加藤清正が築いた熊本城
熊本城には、城作りの名人と言われる加藤清正の英知が尽くされています。
城一帯は、熊本平野の南西に突き出た茶臼山で、守りやすく攻めにくい地形を選んであります。
城の周囲は、坪井川と井芹川を合流させた内堀、そして熊本県最大の河川・白川が自然の外堀となっています。白川にかかる橋は、長六橋ただひとつ。
加えて、他の城には見られないような高い石塀、武者返しと呼ばれる強固な石垣、建物には石落としや鉄砲狭間を完備、万全の守りの体制が見事にできあがっています。
さらに、長期戦に備えて、場内の各所に井戸が掘られ、食糧不足に備えて随所に銀杏の木が植えられています。
城外に目を向けると、本丸に近いところには侍屋敷、城下町には商人や職人を住まわせ、有事に備えては守りの拠点となる寺が、計画的に配置されています。
谷干城(たにたてき)城下町を焼き払う
歴戦の勇士で構成される薩軍を迎え撃つ熊本鎮台は、徴兵令によって集められた、経験不足の兵士たち。さらに数は、薩軍に比して10分の1。降伏するか戦うか、苦渋の決断を迫られた熊本鎮台司令官・谷干城(たにたてき)は、加藤清正が作った難攻不落の熊本城を信じて、籠城を決断します。
2月19日、谷干城は、正午をもって城の周囲の障害物を取り除き、民家を焼き払うことを命じます。同時に、食糧、弾薬庫、道路確保、地雷の埋設などを指示します。
現在の新町、千葉城町、花畑町などの城下町に残るのは、焼き払われた後に建てた建物ばかりです。
熊本城 燃える
「城今焼ける最中 何故か分からぬ 薩兵体調別府 総督篠原 中軍西郷 後軍桐野 篠原は日奈久におる 既に兵端開く勢いある 県庁 今 御船というところへ移りた」(大意)
明治10年2月19日午後12時20分、熊本局から発信されたこの電文は、熊本城に立てこもった熊本鎮台の狼狽ぶりがよく表れている。
薩軍はもう目のまえの川尻(熊本市)まで進軍してきている。その緊急事態のさなかに、これからの戦で自分たちが拠って立つ、大事な熊本城が燃えている。しかも原因もわからない・・・。
西南戦争の際の、この熊本城・天守閣炎上は今もナゾに包まれている。
「城下の人」(石光眞清著)に見る天守閣炎上
その時10歳であった、作家・石光眞清の心に、業火に燃え尽きていく熊本城の光景が焼きついた。後に小説「城下の人」の中で詳しく触れている。
「2月19日も、身を切るような寒い風が強く吹きすさんでいた。お午近くである。にわかに門前が騒がしくなった。『お城に火がついたぞ!』と叫ぶ声が聞こえてきた。私はびっくりした。父はもっと驚いて立ち上がった。・・・(中略)父の後に従いて、お城のよく見える長六橋に行った。本山から迎町にかけては、大変な騒ぎで、長六橋に来てみると、付近は人で埋まっていた。おお淡々と燃える天守閣!窓から凄まじい火焔を吹いて、強風が黒煙を竜巻のように、空高く巻き上げ、城下の街々へ火の粉を降らしている!強風にあおられて火勢はますますつのるばかりである。暫くすると天守閣全体が、一つの火の塊となって昇天するかのようである。」
士気を高める自焼か、薩軍の放火か、説は分かれるところだ。
国内最大の内戦でありながら、表立って語られることが多くない西南戦争の開始を告げる、なんとも奇怪な大事件である。
銀杏(いちょう)の予言 (加藤清正のエピソード)
加藤清正は、天守が完成して間もなく、
「ここに記念に銀杏を植えよう」
と言った。
家来がさっそく手配し、銀杏の木を二本植えた。加藤清正は、満足そうにその木を眺めながら、ぽつりとこんなことを言った。
「この銀杏が天守の高さに達したら、必ずや兵乱が起こるであろうな。」
時は過ぎて、明治10年(1877)、西南戦争が勃発した。西郷隆盛の率いる軍は熊本城を攻撃。
まさにこの戦いの前日、威容を誇った熊本城は炎上した。この時、銀杏はまさに天守の高さに達していたという。
天守閣消失時に、銀杏の大木も同時に焼けたが、そのあとからまた新たな芽が伸びて大きく育ち、現在は小天守の高さに届かんとしている。
緒戦開く
薩軍の攻撃は城の灰燼がくすぶる22日から始まる。花岡山から、熊本鎮台が立てこもる熊本城めがけて大砲が火を噴いた。
このときの戦力比は、薩軍約14,000名、鎮台軍約4,000名。古来、城攻めは、攻める側は守る側の10倍の人数が必要とされている。どれだけ薩摩の兵が精悍であろうと、3倍の人数での城攻めは、無謀であった。
この日の昼過ぎ、西郷隆盛が、遅れて川尻から代継宮に到着した。
乃木希典少佐(のちの乃木大将)、軍旗を奪われる
同日2月22日の午後、薩軍は、官軍の一部が植木へ進出したことを聞き、小隊を植木に派遣した。植木町向坂で官軍と衝突し、薩軍・伊東隊の岩切正九郎が、乃木希典少佐が率いる第十四連隊の河原林少尉(このとき戦死)が持つ軍旗を奪い取った。
「軍旗を失し生還する何の名目ぞ。返戦し旗を獲んと欲する者は我に随えと合す。皆泣て我を抱止し・・・」部下が乃木を必死に押しとどめ、ようやく後退を納得した。
河原林少尉が眠る、七本官軍墓地(植木町轟)
薩軍の小倉電撃作戦、失敗におわる
一方、総攻撃をしかけた熊本城の守りは堅く、簡単には攻め落とせそうもない。夜の軍議で、薩軍がもめているうちに、官軍の第一・二旅団は本格的に南下を開始する。
この軍議では、一旦は篠原らの熊本城強襲を続行することに決定した。しかし、遅れて到着した西郷小兵衛(西郷隆盛の弟)や野村忍介が、強く反対。再軍議は深夜に開かれ、熊本城を強襲しながら、一部は小倉を電撃することになった。
翌日23日に、薩軍・池上四郎が村田、深見らの小隊を率いて小倉へ向けて出発。が、途中で激しい銃撃戦の音を聞いて、池上は田原へ進み、村田三介の小隊だけが小倉方面へ向かった。しかし、この村田の小隊は、植木で官軍と遭遇し、小倉電撃作戦は失敗に終わる。
陥ちない熊本城、薩軍、作戦を長囲策に変更
堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する熊本鎮台を、少ない大砲と装備の劣った小銃で攻める・・・。2月21日から24日に至るまで、薩軍の無謀この上もない攻撃は、ことごとく失敗した。そのうえ剽悍な薩軍の士の多くがこの戦いで消耗。24日以降は、両軍の対峙状態となった。
そこで薩軍は、南下、あるいは上陸してくると予想される、官軍と熊本鎮台に対処するために、作戦を熊本城強襲策から長囲策に変更した。
官軍、南下を急ぐ
2月24日、久留米で木葉の敗戦報告を聞いた、官軍第一旅団・野津鎭雄少将と、第二旅団・三好重臣少将は、三池街道に隊の一部を派遣し、南下を急いだ。第十四連隊・乃木希典少佐は石貫に進む一方で、高瀬方面へ捜索を出した。
2月25日、乃木希典少佐の第十四連隊は、山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃した。うち、山鹿街道を進んだ部隊は、薩軍・野村忍介の5箇小隊と対戦。一方、高瀬道を進んだ部隊は、薩軍と戦闘をすることなく高瀬を占領する。
高瀬川の激戦、始まる
2月25日、山鹿、植木、伊倉に兵を配置した薩軍に対し、官軍の征討旅団は南関に本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送った。
官軍が高瀬川の線に陣をしくのを見た薩軍は、高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、また別の隊は川を渡って、迫間・岩崎原を攻撃した。しかし薩軍は、官軍の射撃に苦しみ、加えて官軍の増援部隊に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。
政府軍、南関に入る
南関は、福岡と熊本を結ぶ主要な街道(豊前街道)であり、戦略上でも要地であった。この地を押さえれば、薩軍を熊本県内に封じ込めることができる。
政府軍の援軍は、博多から南関に入ってきた。有栖川宮を征討総督とした政府軍は、本営を正勝寺に置いた。
乃木連隊長も高瀬(玉名)の戦いで貫通銃創を受け、南関の臨時野戦病院になった西宗寺に運ばれてきた。翌日、久留米に後送され、20日ほど入院、再び前線へ戻っていった。
結局、南関では戦はなかったが、基地としての大きな役目を果たした。城の宮官軍墓地、肥猪(こえい)町官軍墓地がそのことを伝えている。
薩軍、高瀬方面へ北進
2月26日、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。薩軍主力はここで山鹿方面、植木・木葉方面、吉次・伊倉方面の3方面に分かれ、高瀬に進撃しつつある官軍を挟撃する計画でいた。
これに対し官軍は、薩軍主力の北進を知らなかった。捜索隊の報告と各地からの急報で、初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに、三好重臣旅団長自ら迫間に進出した。激しい銃撃戦、接近戦が行われ、三好重臣少将は銃創を負った。
官軍、稲荷山を占領、高瀬の激戦を制す
2月26日午前10時頃、薩軍の桐野利秋率いる山鹿方面隊は迂回して、石貫にある官軍背後の連絡線を攻撃。官軍側は、増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。
稲荷山を占領した官軍は、何度も奪取を試みる薩軍を銃撃して退けた。次いで、南下してきた官軍の兵が、右側面を衝いたので、さすがの猛将・桐野利秋率いる薩軍も堪らず、江田方面に退却。
稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であり、ここをめぐる争奪戦は、西南戦争の天目山とも言われている。
援軍を得た官軍は、反撃に出る。薩軍も、敵前渡河を強行するなどして、高瀬の奪回を試みたが官軍の増援に押され、日没もせまり、大浜方面へ退却した。疲労した官軍には、追撃する余裕もなかった。
この方面の戦闘は激戦で、戦死した薩軍諸将の中には、西郷小兵衛(西郷隆盛の実弟)がいた。薩軍一番大隊一番小隊長として自ら陣頭指揮をとり、弾丸に胸を貫かれて壮絶な最期をとげた。
兄・西郷隆盛は、熊本市に運ばれてきた小兵衛の遺体を見て、瞬きをしただけで終始無言であった。
薩軍本陣跡 山鹿豊前街道
「西南の役山鹿口の戦い 薩軍本陣の跡」
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現山鹿ホテル前の看板 |
薩軍が山鹿に入ってきたのは同年2月25日です。それから、数回にわたる激戦を経て、3月20日に田原坂が落ち、薩軍が山鹿を撤退するまでの24日間、ここが作戦基地となりました。本陣は梅の井旅館(山鹿ホテルの西隣)に置かれ、桐野利秋は、戦いの前半、ここにいました。3月21日には、政府軍が山鹿入りします。本営は薩軍がいた梅の井旅館にそのまま置かれ、山鹿口の戦いは終焉を迎えました。
宮崎滔天(とうてん)の著書「熊本協同隊」には、「山鹿は有名なる温泉場なり、すなはち食うに佳肴あり、飲むに美酒あり、加うるに人民の歓迎を以ってす。人々をしてそぞろに賊軍をうらやむの念を生ぜしむ」と薩軍を歓迎した様子が書かれています。
薩軍が山鹿にいたこの間に、日本最初の民権政治がおこなわれました。平川惟一(のぶかず)、宮崎八郎らで組織する熊本協同隊は、西南戦争が勃発すると、薩軍と一緒に参戦します。そそて、山鹿に彼らが理想とした民権政府を作り、地元の野満長太郎を民政官に選出しました。普通選挙により人民総代を選び、総代により町の円滑な政治が行なわれました。しかし、この試みも薩軍や熊本協同隊の山鹿撤退と同時に崩壊しました。
熊本と福岡を結ぶ豊前街道は、当時は戦略的に重要な意味を持つ街道でした。その街道沿いの山鹿もまた、重要な戦略拠点です。山鹿の豊前街道は現在も残り、昔の古い建物も残る、風情のある様相が、往く人の目を楽しませます。
また、八千代座、山鹿灯篭民芸館(元安田銀行・有形文化財)などが現存しています。
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現在の豊前街道(山鹿市) |
八千代座 |
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山鹿灯篭民芸館 |