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1877年3月

田原坂・吉次峠の大激戦はじまる、警視抜刀隊の活躍

3月1日から3月31日まで植木町では、田原坂・吉次峠の大激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みがひどく、雨も降る、厳しい状況の中で戦いは始まった。

3月11日、官軍は、薩軍の田原坂防衛線を突破するため、軍を主力隊と別働隊に分け、山鹿の桐野利秋部隊の動きを封じ込め、主力隊が田原坂・吉次峠を突破する作戦をとる。

しかし官軍の主力は、薩軍の地形を存分に利用した激しい銃撃と、お家芸ともいえる示現流抜刀白兵戦に手も足も出ない。

そこで田原坂の正面突破を諦め、西側から攻めて横平山(那智山)を奪うことにした。

薩軍得意の白兵抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵卒を選び抜刀隊を組織したが、討ち破られる。

3月14日、新たに警視抜刀隊を組織した官軍は、田原坂攻撃を開始。警視抜刀隊は、薩軍と互角に渡り合う。のちにこの時の抜刀隊の功を称えて有名な抜刀隊の歌が作られた。

しかし、横平山を占領することは、とうとうできなかった。



官軍、横平山を占領する

翌日3月15日、官軍は薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。

3月17日、官軍は西側と正面からの攻撃を開始。しかし、地形をうまく生かして戦う薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。

この間、3月14日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も約2,000名にものぼる。



官軍、開戦以来の総攻撃

20日早朝、官軍は開戦以来、最大の兵力を投入。攻撃の主力隊は豪雨と霧に紛れながら、谷を越え、田原坂付近に接近した。

そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。砲撃が止むと同時に、薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。

薩軍は官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、状況が把握できないまま、防戦一方にまわらざるをえなかった。


官軍の攻撃を成功に導いたのは、別働の吉次峠部隊の活躍が大きい。吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。これによって官軍主力は「田原坂突破」の一本に的を絞ることが出来た。

しかし、吉次峠部隊の被害は甚大で、駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。

薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなり、植木方面に敗走した。



死闘のあと

官軍と薩軍の、田原坂での死闘は17日間続いた。毎日32万発の弾が乱れ飛ぶ。空中で弾と弾が衝突する「かちあい弾」が、田原坂資料室に展示されている。日露戦争(旅順)のときでも、弾丸の消費量は1日30万発と言われている。

3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも、現地では当時の銃弾が、田畑や斜面からしばしば発見されている。

薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長・篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。官軍も3月20日の戦死者だけで495名にのぼる。田原坂の戦いの激しさは、官軍の小隊長30名のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。

こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。



佐川官兵衛、無念の戦死

南阿蘇では、元会津藩家老、「鬼官兵衛」こと佐川官兵衛が、戦死を遂げている。

会津藩家老であった佐川官兵衛は、戊辰戦争のときは”賊”として薩長の兵に追われた。

後に西南戦争が始まると、彼は旧会津藩士を率い、東京警視隊の副指揮長として薩軍と戦い、南阿蘇村の濁川一帯で薩軍と激戦し、壮烈な戦死を遂げた。

戊辰の仇討ちと、怒りを漲らせて、かつての仇敵に官軍として戦い、死んだ。

南阿蘇村の明神池の一帯には、佐川官兵衛にちなむ4つの碑が建っている。



熊本城西側、段山の争奪戦

長期間にわたる薩軍の包囲と砲撃に、熊本城に籠城している鎮台軍は苦しんだ。

3月12日と13日、熊本城の西側・段山をめぐる両軍の争奪戦が起こる。周りが見えない濃い霧の中で、砲撃・銃撃を混じえた激戦となり、霧が晴れたときには双方の距離わずか10数歩、という接近戦であった。

最終的には、熊本鎮台軍が段山の背後に出て、薩軍を敗走させた。この戦いは官軍死傷者221名、薩軍死者73名捕虜4名という、長囲戦最大の激戦であった。



熊本城内、困窮する熊本鎮台軍

薩軍の主力が北へ転戦したため、城を守る鎮台の負担は減った。しかし、開戦前の出火で食糧を失い、その補充が不充分。糧食不足に苦しみ、極力消費を抑えることで凌いでいた。

一方、薩軍は、高瀬・山鹿・田原・植木等の北部戦線が激戦化するにつれ、増援部隊を激戦地に派遣して人数が減少。寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しんだ。

鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れた。



熊本城、水攻め

長囲にあてる兵力が減少した薩軍は、3月26日、石塘を堰き止め、坪井川・井芹川の水を城の周囲に引き込んだ。これによって熊本城の東北および西部の田畑は、巨大な湖となった。

この策によって薩軍は、城の東北及び西部を守る数百名の兵を節約できた。しかしこれは鎮台軍にとっても、城の西部を守る兵が節約できたので、好都合となった。



熊本鎮台軍、城外へ度々出撃~北部方面

薩軍主力が北部戦線に移動した2月27日から、熊本鎮台の城外出撃が始まった。

3月26日には、京町口・井芹村・本妙寺に後方攪乱部隊を出撃させた。これらの部隊は一時薩軍を走らせたものの、逆襲にあい、撤退した。



官軍、衝背軍を八代へ派遣する

官軍南下軍は、2月の高瀬の戦いのあと、薩軍の背後をつくために衝背軍を派遣して、八代に上陸させることとした。その目的は、

・熊本鎮台との連絡をとること
・薩軍の鹿児島との補給・連絡を遮断すること
・薩軍を腹背から挟撃すること

等であった。黒田清隆中将が参軍となり、この上陸衝背軍を指揮することとなった。



官軍衝背軍の上陸と、八代占領

最初の衝背軍は3月18日、長崎を出発して八代に向かった。

この旅団は3月18日、艦砲射撃に援護されて日奈久(ひなぐ)南方と八代の薩軍背後に上陸し、薩軍を2方向から攻撃して八代の占領に成功した。

20日には黒田清隆参軍率いる1箇大隊半と警視隊500名余が日奈久に上陸。薩軍では、なんら効果的な防御ができなかった。



氷川の激戦

官軍の八代上陸の報を得た薩軍は、熊本包囲軍の一部を割き、永山弥一郎が隊を率いて八代に飛ぶ。

3月20日、薩軍の先遣隊と官軍は氷川を挟んで激戦し、薩軍は対岸に進出した。

しかし、翌21日には増援を得た官軍が押し返し、薩軍を砂川に退却させた。
22日、黒田清隆参軍は宮の原に出て、薩軍と激戦。増援を得た薩軍と官軍の戦闘は24、25日と続き、戦況は一進一退した。

3月24日、長崎を出発した官軍の別働旅団が、25日午後、八代に上陸した。



小川方面の戦い

3月26日、官軍の黒田清隆参軍は、到着した別働旅団を配置して小川方面の薩軍を攻撃し、激戦の末、撃退して小川を占領した。

この時の、薩軍の猛将永山弥一郎が薩軍を激励した名文句が残っている。

「諸君何ぞ斯(かく)の如く怯なる、若し敵をして此地を奪はしめんか、熊本城外の我守兵を如何にせん、大事之に因て去らんのみ、生きて善士と称し、死して忠臣と称せらるゝは唯此時にあり、各死力を尽し刀折れ矢竭(つ)き而して後已(やまん)」(『薩南血涙史』)