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1877年4月

鳥巣方面の激戦

3月10日、薩軍が鳥巣に入り、4月15日に撤退するまでの間、官軍との間に熾烈な争いが繰り広げられる。

3月30日明け方、官軍が二手に分かれて隈府に攻め入ってきた。人数が不足していた薩軍は、最初は苦戦したが応援部隊が到着し、どうにか官軍を退ける。

4月5日、官軍は、鳥巣に布陣した薩軍の真ん中に攻め入った。虚をつかれた薩軍はたちまち敗走。これを聞いた薩軍の野村忍介は、植木にいた隊を引き連れて鳥巣に向かい、挽回しようと奮戦。結局、この日は決着がつかなかった。



官軍の鳥巣再攻略、薩軍敗退

4月7日、古閑を先に攻略するために、官軍がこの地に一旦見切りをつけたため、一時的に休戦状態になった。一方、古閑では薩軍の必死の抗戦により、官軍はやむなく撤退する結果となった。

4月9日、薩軍は、再び隈府に攻め入った官軍を撃退、しかし弾丸・武器の不足により、赤星坂へ撤退した。

4月10日から4月13日にかけて、官軍は、鳥巣再攻略を仕掛ける。薩軍もこれに対して勇ましく応戦したが、いよいよ武器が尽きてしまったうえに、撤退命令が下されたため、この地をあとに大津に向かった。



熊本鎮台軍、城外へ度々出撃~南部方面

籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうと、南方の川尻方面に出撃する。

4月8日、隊を3つに分けて出撃。水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。出撃隊の一部は、薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。



松橋・ 宇土・堅志田・緑川の戦い

3月30日、31日と、黒田清隆参軍率いる官軍旅団は各地で薩軍を攻撃しながら進軍した。薩軍はこれに耐えきれず川尻に後退し、官軍は松橋を占領した。

4月1日、官軍は宇土を占領。また、甲佐に退却した薩軍を追撃して堅志田を占領した。

3日、早朝の霧に乗じた薩軍の急襲を、官軍は5時間にわたる激闘の末、これを退ける。

さらに、追撃して緑川を越え、薩軍の側背を衝き、そのまま進んで甲佐を占領した。薩軍は悉く御船に退却した。

官軍は、新たに上陸する増援部隊を得ながら、7日には、緑川左岸の薩軍を押し返す。また一方、木原山急襲の薩軍を挟撃して川尻に敗走させた。



御船の戦い~薩軍猛将・永山弥一郎の最期

黒田清隆参軍の指揮のもと、4月12日、官軍は一斉に攻撃を開始。宮地を発して緑川を強行渡河。緑川は死体で埋まり、血で染まったと言われる。

緑川を渡った官軍は、薩軍を攻撃。御船川に追い詰められた薩軍は、銃火を浴びて壊滅状態になった。薩軍は敗戦続きに気勢揚がらず、民家に放火して退却した。

この時、負傷を推して二本木本営から人力車で駆けつけた永山弥一郎は、敗走する薩軍兵士を叱咤激励していたが、挽回不能と見て、民家を買い取り、火を放ち、従容として切腹した。また、荷駄掛の税所在一郎も、彼に従って自刃した。

永山が民家を買い取った額は100円。当時立派な家が新築できる価格であった。
彼の人柄と壮烈な最期は、御船町郷土史の1ページを飾っている。

かくして御船は官軍に占領された。

4月12日、一旦は薩軍に進撃を阻まれた官軍だったが、翌13日、ついに緑川を渡り、薩軍と激戦しながら川尻に進み、守る薩軍を攻撃して退け、とうとう川尻を占領した。



官軍突背軍、ついに入城~山川中佐の機転

4月13日、官軍の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城内に達した。

熊本城中の鎮台軍はみな狂喜したが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。



薩軍、兵力を徴集し、官軍の背後を衝く作戦

このころ、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野利秋の命で淵辺群平・別府晋介・辺見十郎太らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。

3月25、26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、官軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、熊本にいる薩軍との合流ができなかった。

よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の官軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦をとることとなった。



薩軍、八代を急襲

4月4日、薩軍は、人吉から球磨川に沿い、あるいは舟で下って八代南郊に出た。

まず坂本村の官軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫った。しかし、7、8日の官軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。

4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって官軍が一時敗退したが、13日に官軍に援軍が投入され、薩軍・官軍ともに引かず、4月17日までこの状態が続いた。

17日、薩軍の右翼をつく官軍の作戦が成功して、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき薩軍・協同隊の宮崎八郎が戦死、別府晋介が足に重傷を負った。



薩軍・宮崎八郎の戦死

宮崎八郎は、自由民権の壮士である宮崎とう天の兄である。彼は、熊本協同隊の参謀長として薩軍を援助した。

八代の薩軍が危ないとの状況の中で、熊本市にいた宮崎八郎は、八代の薩軍・辺見十郎太のもとに来、死を決して辺見隊の一員となった。

4月6日、薩軍は押され、先を争って球磨川へ飛び込む。堤防の上から官軍が撃つ。川が真っ赤に染まる。

宮崎八郎は、辺見十郎太に、「自分に任せろ」と告げて指揮旗を持って身代わりとなり、堤防の上に仁王立ちになった。弾が当たった。宮崎八郎の懐には、ルソーの民約論が抱かれていた。弱冠、27歳であった。

宮崎八郎の恋人、浪子は、八郎の死を聞き、熊本から八代に赴いて、球磨川河畔をさまよい続けた。



薩軍、本営を木山に移す

薩軍の桐野利秋は4月14日、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木と鳥巣の薩軍に、川尻の敗戦をしらせ、兵を木山に引き揚げるように伝えた。

薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営のある木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船にわたる20km余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する官軍を迎え撃ち、全滅させる作戦をとることにした。



城東会戦~関ケ原の戦以来最大の野戦

4月20日黎明、官軍は、薩軍右翼の大津に進撃したが、薩軍・野村忍介の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。

また、現在の熊本市東部方面を中心に、以下のような激戦が繰り広げられる。

4月19日、官軍は連繋して健軍地区の薩軍を攻めた。薩軍は健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退くが、援軍が到着し、逆襲して官軍を撃破した。官軍も援軍を得たが、苦戦をいかんともしがったかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍を押し返したが、薩軍優位のまま日没になった。

また、官軍の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。猛烈な火力を集中して、薩軍の先陣を突破し、後陣に迫ったが、中島健彦が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた官軍は、ようやく包囲を脱して後退した。

長嶺地区の薩軍・貴島清は抜刀隊を率いて勇進し、官軍主力の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県有朋参軍は官軍苦戦、薩軍が熊本に突出する虞れあり、との報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊を戦線に投入するありさまであった。

薩軍最左翼の御船には、熊本に入った官軍と入れ替わる形で、薩軍・坂元仲平指揮の諸隊が進駐していた。官軍は4月17日、御船を攻めた。薩軍はこの攻撃は退けた。しかし、それに続く官軍からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。

4月19、20日に官軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に薩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には薩軍最右翼、大津の野村部隊も退却したので、翌21日早朝、官軍は大津に進入し、続けて薩軍を追撃して小戦を重ね、木山に進出した。大津には官軍第三旅団が進出してここに本営を移した。

この一連の「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。だが官軍は、最右翼の大津と、最左翼の御船から、薩軍本営の木山を挟撃できる情勢になった。

桐野利秋は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺吉十郎の必死の説得で、桐野はついに撤退して本営を東方の矢部浜町へ移転することにし、自ら退却の殿りをつとめた。

こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も後退せざるを得なくなった。関ヶ原の戦い以来、最大の野戦であった「城東会戦」はこうして、わずか一日の戦闘で決着がついた。



薩軍、三州(薩摩・大隈・日向)盤踞策の本拠を人吉とする

4月20日、薩軍は、矢部(現山都町)に退いた。西郷隆盛もここに入り、薩軍の主力が矢部に集結した。もうこのときは総勢3,000余名になっていた。

最盛期には4万を超えた薩軍も、総帥西郷の回りにこれだけの人数しか残らなくなっていた。

本営をここの酒造家備前屋に構えた。今の通潤酒造である。

4月21日、薩軍は矢部浜町の軍議で、三州(薩摩国・大隅国・日向国)盤踞策をとること、人吉をその根拠地とすることなどを決めた。即日、薩軍は全軍を二手に分け、椎原越えで人吉盆地へ退却した。



薩軍、人吉に入る

4月27日、人吉盆地に入った薩軍は本営を人吉に置いた。

4月28日に江代に着いた桐野利秋は、ここに出張本営を置き軍議を開いた。江代軍議で決められたのは、人吉に病院や弾薬製作所を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐次実行に移された。



薩軍、辺見十郎太を大口へ派遣

4月22日に、雷撃隊 (13中隊、約1300名)の指揮長に抜擢された、薩軍の辺見十郎太は、日ならずして大口防衛に派遣された。

これに対し官軍は5月4日、大口攻略のため兵を派遣した。この部隊は途中、小河内・山野などで少数の薩軍を撃退しながら大口の北西・山野まで進攻した。