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1877年5月

神瀬方面~薩軍の一箇中隊、官軍に下る

5月8日、薩軍は神瀬箙瀬方面に向かった。

官軍との戦闘は5月9日に始まったが、5月15日には、薩軍の1箇中隊が官軍に下るという事件が起きた。

これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら6月頃まで続いた。



万江方面~人吉に通じる要衝、万江越道をめぐる戦い

5月19日、官軍は人吉に通じる万江越道の要衝、水無・大河内の薩軍を攻撃した。

これを迎え撃った薩軍は、いったん鹿沢村に退き、5月21日に水無・大河内の官軍に反撃をしかけたが、勝敗を決することができず、再び鹿沢村に引き揚げた。

5月28日、今度は官軍が鹿沢村の薩軍を攻撃した。常山隊は必死に防戦したが、弾薬がつきたために内山田に退き、翌日29日に大村に築塁し、守備を固めた。



大野方面~薩軍、材木村と一ノ瀬で官軍を退ける

5月5日、田ノ浦に官軍が上陸。

5月6日、官軍が材木村を攻めたので、薩軍はこれを迎え撃ち、一旦は佐敷に退却させることに成功した。

しかし5月9日、官軍は再び材木村の薩軍を攻めた。激戦がおこなわれたが、薩軍は敗れ、長園村に退いた。

また、5月9日、一ノ瀬の薩軍は官軍の襲来に苦戦しつつも材木村まで到達し、材木村の薩軍と共に塁の奪還に成功した。

さらに5月9日、薩軍は湯ノ浦の官軍を攻めたが失敗し、大野に退却した。

5月16日、官軍が一ノ瀬の薩軍を攻撃した。薩軍は苦戦したが、大野からきた援軍により官軍を退けることができた。



大野方面~薩軍、久木野で圧勝

5月20日、官軍が久木野に進入したが、薩軍の襲撃にあい、退却させられた。この戦いは薩軍の圧勝となり、銃器や弾薬、その他の物品を多く得た。

5月22日、薩軍は久木野に進撃し、官軍を退けた。



大野方面~薩軍、人吉へ退却

5月23日、官軍が倉谷・高平・大野方面の薩軍を次々と破り、大野に進入してきた。薩軍は敗れて石河内に退却した。また、夜襲をしかけるも、官軍の反撃にあい、失敗に終わった。

この日官軍は、一ノ瀬、神ノ瀬の薩軍をも破った。

5月28日明け方から、官軍は人吉に向かって随所の薩軍に攻撃をしかけていく。

小競り合いもありながら、しかし薩軍の銃器・弾薬の不足による退却も多く、大方は官軍が勝利を収める。薩軍各隊は大いに苦戦し、次々と兵を原田村に引き揚げた。

激しい攻防が続き、勝敗は決まらず夜になった。翌日薩軍各隊は原田村に兵を配置した。

6月1日早朝、各所に配置された官軍が人吉に向かって進撃した。諸方面の薩軍はすべて敗れ、人吉や大畑に退却した。



人吉攻防戦~官軍、人吉へ迫る

5月3日~7日までの宮藤の戦い、5月10日~14日までの平瀬の戦い、5月21日の横野方面の戦いでは、官軍が薩軍を襲撃し、敗走させた。

一方、尾八重を守っていた薩軍は岩野村を守備し、5月22日、前面の官軍を襲撃し敗走させた。さらに追撃しようとしたが弾薬が不足していたので、米良の西八重に退却した。

官軍は、7つの街道から球磨盆地に攻め入る作戦をたて、5月1日~9日までこの作戦を遂行した。

まず前衛隊は球磨川北岸沿いを通る球磨川道、南岸沿いを通る佐敷道から攻めた。しかし街道は、大部隊が通るには困難な地形であり、官軍は各地で薩軍に敗退した。

しかし薩軍も、人員・物資の不足により、次第に勢いがなくなった。官軍はそこを突いて5月12日、球磨盆地の北部にある五家荘道などの5つの街道から南下し始めた。

薩軍の球磨川北部の守りが薄かったので、官軍は12日~25日までの13日間に、五木荘道の頭治・竹の原、球磨川道の神瀬、種山道、仰烏帽子岳など多くの要地を陥落させた。



薩軍、宮崎支庁を占領する

この頃、桐野利秋は、宮崎から鹿児島方面、および豊後等の軍を統監していたが、ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、5月28日に軍務所と改称した。

官軍の侵攻で危険が目前に迫った人吉では、村田新八らが相談して、西郷隆盛の安全をはかるために、5月29日、池上四郎に随行させて、狙撃隊等2,000名の護衛で宮崎の軍務所へ移動させた。

5月31日に西郷が軍務所に着くと、ここが新たな薩軍の本営となり、軍票(西郷札)などが作られ、財政の建て直しがはかられた。



人吉攻防戦~官軍、人吉へ進撃、薩軍・淵辺群平の戦死

官軍の主力部隊は5月30日、五家荘道・照岳道などから、人吉に向かって進撃した。

これと戦った薩軍は各地で敗退し、五家荘道の要地である江代も陥落した。

薩軍が敗退し、危機に陥ったことを聞いた人吉の薩軍は、球摩川に架かる鳳凰橋に向かった。しかし、官軍の勢いは止められず、橋を燃やしてこれを防ごうとした淵辺群平は、銃撃を受けて重傷を負い、吉田に後送されたが亡くなった。



薩軍・電撃隊の奮戦、「第2の田原坂」

辺見十郎太は官軍を撃退すべく大口の雷撃隊を展開した。

5月5日、雷撃隊と官軍は牛尾川付近で交戦したが、雷撃隊は敗れ、官軍は大口に迫った。辺見十郎太は雷撃隊を中心に他の諸隊を加え、大塚付近に進み、8日の朝から久木野本道に大挙して攻撃を加え、官軍を撃退した。押されて官軍は深渡瀬までさがった。

久木野・山野を手に入れた辺見十郎太は5月9日、自ら隊を率いて官軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩境を越えて追撃した。

5月11日、雷撃隊は水俣の間近まで兵を進め、大関山から久木野に布陣した。
人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた薩軍も、佐敷を攻撃した。

12日、官軍に押される他の薩軍の中で、雷撃隊は圧倒的に優る官軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわれるほどの奮戦をした。これを見た官軍は増援を決定し、佐敷、水俣へ兵を派遣した。



官軍、圧倒的物量を兵力を注ぐ

官軍は5月23日、矢筈岳へ進攻し、圧倒的物量と兵力で薩軍を攻撃した。ここを守る薩軍は奮戦したが、支えきれずに撤退した。

対して26日未明、薩軍の攻撃隊約60名が矢筈岳の官軍を急襲したが、官軍の銃撃の前に後退し、薩軍はやむなく大口へと後退した。