1877年6月
人吉攻防戦~官軍、人吉に突入
6月1日早朝、官軍が次々と人吉に突入した。そして村山台地に砲台を設置し、薩軍本営のあった球磨川南部を砲撃した。
これに対し薩軍も、人吉城二ノ丸に砲台陣地を設け対抗した。しかし薩軍の大砲は射程距離が短いため、逆に永国寺や人吉城の城下街を焼いてしまった。
この戦いは3日間続いた。
薩軍本隊は大畑などで、大口方面の雷撃隊と組んで戦線を構築し、官軍のさらなる南下を防ごうとしたが失敗。堀切峠を越えて、飯野へと退却した。こうして人吉は官軍の占領するところとなった。
その後、薩軍の本隊から残された部隊が、官軍の勧告を受け入れ次々と降伏した。人吉隊の中にはのちに官軍に採用され軍務に服したものもあった。
人吉陥落後、薩軍、大畑へ 大口の電撃隊、奮闘
6月1日、三洲盤踞の根拠地となっていた人吉が陥落し、薩軍本隊は大畑へ退いた。
6月3日に大関山へ、官軍の2方面からの総攻撃が始まった。官軍の正面隊は原生林に放火しながら進撃した。雷撃隊はこれらを激しく迎撃したが、2面攻撃に耐え切れず、大口方面へ後退した。これを追って官軍は久木野前線の数火点および大関山・国見山を占領した。
6月7日に久木野が陥落し、薩軍は小河内方面に退却した。翌日、官軍はこれを追撃して小河内を占領した。
6月13日、山野が陥落。官軍は大口へ迫り、人吉の官軍旅団は、飯野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩軍本隊に攻撃を加えた。結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。
大口陥落、電撃隊撤退「十郎太の涙松」
官軍は6月17日、八代で大口方面に対する作戦会議を開き、薩軍全面追撃の手筈が整えられた。
6月18日、官軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率いる辺見十郎太は砲弾の雨の中、必死に官軍をくい止めていた。だが、郡山・坊主石山が官軍の手に落ち、高熊山に籠もっていた薩軍の部隊・熊本隊が完全に包囲された。
官軍は6月20日、高熊山の熊本隊と、雷撃隊が占領する大口に攻撃を加えた。この時の戦闘では塹壕に拠る、薩軍得意の抜刀白兵戦が繰り広げられた。
しかし、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃の中、寄せ集め兵士の士気の激減と敵軍の圧倒的な物量で、さしもの辺見指揮下の部隊も敗れ、遂に大口は陥落した。
雷撃隊が大口から撤退することになった時、辺見十郎太は祠の老松の傍らに立ち、覚えず涙を揮って「私学校の精兵をして、猶在らしめば、豈此敗を取らんや」(『西南記伝』辺見十郎太伝)と嘆いたと言われる。これが有名な「十郎太の涙松」の由来になった。
6月25日、雷撃隊は大口の南に布陣し、曽木、菱刈にて官軍と戦ったが敗退し、他の薩軍とともに、南へと後退していった。ここに大口方面における約2ヶ月もの戦いに幕は下りた。