熊本市
築城名人 加藤清正が築いた熊本城
熊本城には、城作りの名人と言われる加藤清正の英知が尽くされています。
城一帯は、熊本平野の南西に突き出た茶臼山で、守りやすく攻めにくい地形を選んであります。
城の周囲は、坪井川と井芹川を合流させた内堀、そして熊本県最大の河川・白川が自然の外堀となっています。白川にかかる橋は、長六橋ただひとつ。
加えて、他の城には見られないような高い石塀、武者返しと呼ばれる強固な石垣、建物には石落としや鉄砲狭間を完備、万全の守りの体制が見事にできあがっています。
さらに、長期戦に備えて、場内の各所に井戸が掘られ、食糧不足に備えて随所に銀杏の木が植えられています。
城外に目を向けると、本丸に近いところには侍屋敷、城下町には商人や職人を住まわせ、有事に備えては守りの拠点となる寺が、計画的に配置されています。
谷干城(たにたてき)城下町を焼き払う
歴戦の勇士で構成される薩軍を迎え撃つ熊本鎮台は、徴兵令によって集められた、経験不足の兵士たち。さらに数は、薩軍に比して10分の1。降伏するか戦うか、苦渋の決断を迫られた熊本鎮台司令官・谷干城(たにたてき)は、加藤清正が作った難攻不落の熊本城を信じて、籠城を決断します。
2月19日、谷干城は、正午をもって城の周囲の障害物を取り除き、民家を焼き払うことを命じます。同時に、食糧、弾薬庫、道路確保、地雷の埋設などを指示します。
現在の新町、千葉城町、花畑町などの城下町に残るのは、焼き払われた後に建てた建物ばかりです。
熊本城 燃える
「城今焼ける最中 何故か分からぬ 薩兵体調別府 総督篠原 中軍西郷 後軍桐野 篠原は日奈久におる 既に兵端開く勢いある 県庁 今 御船というところへ移りた」(大意)
明治10年2月19日午後12時20分、熊本局から発信されたこの電文は、熊本城に立てこもった熊本鎮台の狼狽ぶりがよく表れている。
薩軍はもう目のまえの川尻(熊本市)まで進軍してきている。その緊急事態のさなかに、これからの戦で自分たちが拠って立つ、大事な熊本城が燃えている。しかも原因もわからない・・・。
西南戦争の際の、この熊本城・天守閣炎上は今もナゾに包まれている。
「城下の人」(石光眞清著)に見る天守閣炎上
その時10歳であった、作家・石光眞清の心に、業火に燃え尽きていく熊本城の光景が焼きついた。後に小説「城下の人」の中で詳しく触れている。
「2月19日も、身を切るような寒い風が強く吹きすさんでいた。お午近くである。にわかに門前が騒がしくなった。『お城に火がついたぞ!』と叫ぶ声が聞こえてきた。私はびっくりした。父はもっと驚いて立ち上がった。・・・(中略)父の後に従いて、お城のよく見える長六橋に行った。本山から迎町にかけては、大変な騒ぎで、長六橋に来てみると、付近は人で埋まっていた。おお淡々と燃える天守閣!窓から凄まじい火焔を吹いて、強風が黒煙を竜巻のように、空高く巻き上げ、城下の街々へ火の粉を降らしている!強風にあおられて火勢はますますつのるばかりである。暫くすると天守閣全体が、一つの火の塊となって昇天するかのようである。」
士気を高める自焼か、薩軍の放火か、説は分かれるところだ。
国内最大の内戦でありながら、表立って語られることが多くない西南戦争の開始を告げる、なんとも奇怪な大事件である。
銀杏(いちょう)の予言 (加藤清正のエピソード)
加藤清正は、天守が完成して間もなく、
「ここに記念に銀杏を植えよう」
と言った。
家来がさっそく手配し、銀杏の木を二本植えた。加藤清正は、満足そうにその木を眺めながら、ぽつりとこんなことを言った。
「この銀杏が天守の高さに達したら、必ずや兵乱が起こるであろうな。」
時は過ぎて、明治10年(1877)、西南戦争が勃発した。西郷隆盛の率いる軍は熊本城を攻撃。
まさにこの戦いの前日、威容を誇った熊本城は炎上した。この時、銀杏はまさに天守の高さに達していたという。
天守閣消失時に、銀杏の大木も同時に焼けたが、そのあとからまた新たな芽が伸びて大きく育ち、現在は小天守の高さに届かんとしている。
緒戦開く
薩軍の攻撃は城の灰燼がくすぶる22日から始まる。花岡山から、熊本鎮台が立てこもる熊本城めがけて大砲が火を噴いた。
このときの戦力比は、薩軍約14,000名、鎮台軍約4,000名。古来、城攻めは、攻める側は守る側の10倍の人数が必要とされている。どれだけ薩摩の兵が精悍であろうと、3倍の人数での城攻めは、無謀であった。
この日の昼過ぎ、西郷隆盛が、遅れて川尻から代継宮に到着した。
陥ちない熊本城、薩軍、作戦を長囲策に変更
堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する熊本鎮台を、少ない大砲と装備の劣った小銃で攻める・・・。2月21日から24日に至るまで、薩軍の無謀この上もない攻撃は、ことごとく失敗した。そのうえ剽悍な薩軍の士の多くがこの戦いで消耗。24日以降は、両軍の対峙状態となった。
そこで薩軍は、南下、あるいは上陸してくると予想される、官軍と熊本鎮台に対処するために、作戦を熊本城強襲策から長囲策に変更した。
熊本城西側、段山の争奪戦
長期間にわたる薩軍の包囲と砲撃に、熊本城に籠城している鎮台軍は苦しんだ。
3月12日と13日、熊本城の西側・段山をめぐる両軍の争奪戦が起こる。周りが見えない濃い霧の中で、砲撃・銃撃を混じえた激戦となり、霧が晴れたときには双方の距離わずか10数歩、という接近戦であった。
最終的には、熊本鎮台軍が段山の背後に出て、薩軍を敗走させた。この戦いは官軍死傷者221名、薩軍死者73名捕虜4名という、長囲戦最大の激戦であった。
熊本城内、困窮する熊本鎮台軍
薩軍の主力が北へ転戦したため、城を守る鎮台の負担は減った。しかし、開戦前の出火で食糧を失い、その補充が不充分。糧食不足に苦しみ、極力消費を抑えることで凌いでいた。
一方、薩軍は、高瀬・山鹿・田原・植木等の北部戦線が激戦化するにつれ、増援部隊を激戦地に派遣して人数が減少。寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しんだ。
鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れた。
熊本城、水攻め
長囲にあてる兵力が減少した薩軍は、3月26日、石塘を堰き止め、坪井川・井芹川の水を城の周囲に引き込んだ。これによって熊本城の東北および西部の田畑は、巨大な湖となった。
この策によって薩軍は、城の東北及び西部を守る数百名の兵を節約できた。しかしこれは鎮台軍にとっても、城の西部を守る兵が節約できたので、好都合となった。
熊本鎮台軍、城外へ度々出撃~北部方面
薩軍主力が北部戦線に移動した2月27日から、熊本鎮台の城外出撃が始まった。
3月26日には、京町口・井芹村・本妙寺に後方攪乱部隊を出撃させた。これらの部隊は一時薩軍を走らせたものの、逆襲にあい、撤退した。
熊本鎮台軍、城外へ度々出撃~南部方面
籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうと、南方の川尻方面に出撃する。
4月8日、隊を3つに分けて出撃。水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。出撃隊の一部は、薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。
官軍突背軍、ついに入城~山川中佐の機転
4月13日、官軍の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城内に達した。
熊本城中の鎮台軍はみな狂喜したが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。
薩軍、本営を木山に移す
薩軍の桐野利秋は4月14日、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木と鳥巣の薩軍に、川尻の敗戦をしらせ、兵を木山に引き揚げるように伝えた。
薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営のある木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船にわたる20km余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する官軍を迎え撃ち、全滅させる作戦をとることにした。
城東会戦~関ケ原の戦以来最大の野戦
4月20日黎明、官軍は、薩軍右翼の大津に進撃したが、薩軍・野村忍介の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。
また、現在の熊本市東部方面を中心に、以下のような激戦が繰り広げられる。
4月19日、官軍は連繋して健軍地区の薩軍を攻めた。薩軍は健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退くが、援軍が到着し、逆襲して官軍を撃破した。官軍も援軍を得たが、苦戦をいかんともしがったかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍を押し返したが、薩軍優位のまま日没になった。
また、官軍の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。猛烈な火力を集中して、薩軍の先陣を突破し、後陣に迫ったが、中島健彦が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた官軍は、ようやく包囲を脱して後退した。
長嶺地区の薩軍・貴島清は抜刀隊を率いて勇進し、官軍主力の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県有朋参軍は官軍苦戦、薩軍が熊本に突出する虞れあり、との報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊を戦線に投入するありさまであった。
薩軍最左翼の御船には、熊本に入った官軍と入れ替わる形で、薩軍・坂元仲平指揮の諸隊が進駐していた。官軍は4月17日、御船を攻めた。薩軍はこの攻撃は退けた。しかし、それに続く官軍からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。
4月19、20日に官軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に薩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には薩軍最右翼、大津の野村部隊も退却したので、翌21日早朝、官軍は大津に進入し、続けて薩軍を追撃して小戦を重ね、木山に進出した。大津には官軍第三旅団が進出してここに本営を移した。
この一連の「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。だが官軍は、最右翼の大津と、最左翼の御船から、薩軍本営の木山を挟撃できる情勢になった。
桐野利秋は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺吉十郎の必死の説得で、桐野はついに撤退して本営を東方の矢部浜町へ移転することにし、自ら退却の殿りをつとめた。
こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も後退せざるを得なくなった。関ヶ原の戦い以来、最大の野戦であった「城東会戦」はこうして、わずか一日の戦闘で決着がついた。