植木町田原坂
乃木希典少佐(のちの乃木大将)、軍旗を奪われる
同日2月22日の午後、薩軍は、官軍の一部が植木へ進出したことを聞き、小隊を植木に派遣した。植木町向坂で官軍と衝突し、薩軍・伊東隊の岩切正九郎が、乃木希典少佐が率いる第十四連隊の河原林少尉(このとき戦死)が持つ軍旗を奪い取った。
「軍旗を失し生還する何の名目ぞ。返戦し旗を獲んと欲する者は我に随えと合す。皆泣て我を抱止し・・・」部下が乃木を必死に押しとどめ、ようやく後退を納得した。
河原林少尉が眠る、七本官軍墓地(植木町轟)
薩軍の小倉電撃作戦、失敗におわる
一方、総攻撃をしかけた熊本城の守りは堅く、簡単には攻め落とせそうもない。夜の軍議で、薩軍がもめているうちに、官軍の第一・二旅団は本格的に南下を開始する。
この軍議では、一旦は篠原らの熊本城強襲を続行することに決定した。しかし、遅れて到着した西郷小兵衛(西郷隆盛の弟)や野村忍介が、強く反対。再軍議は深夜に開かれ、熊本城を強襲しながら、一部は小倉を電撃することになった。
翌日23日に、薩軍・池上四郎が村田、深見らの小隊を率いて小倉へ向けて出発。が、途中で激しい銃撃戦の音を聞いて、池上は田原へ進み、村田三介の小隊だけが小倉方面へ向かった。しかし、この村田の小隊は、植木で官軍と遭遇し、小倉電撃作戦は失敗に終わる。
田原坂・吉次峠の大激戦はじまる、警視抜刀隊の活躍
3月1日から3月31日まで植木町では、田原坂・吉次峠の大激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みがひどく、雨も降る、厳しい状況の中で戦いは始まった。
3月11日、官軍は、薩軍の田原坂防衛線を突破するため、軍を主力隊と別働隊に分け、山鹿の桐野利秋部隊の動きを封じ込め、主力隊が田原坂・吉次峠を突破する作戦をとる。
しかし官軍の主力は、薩軍の地形を存分に利用した激しい銃撃と、お家芸ともいえる示現流抜刀白兵戦に手も足も出ない。
そこで田原坂の正面突破を諦め、西側から攻めて横平山(那智山)を奪うことにした。
薩軍得意の白兵抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵卒を選び抜刀隊を組織したが、討ち破られる。
3月14日、新たに警視抜刀隊を組織した官軍は、田原坂攻撃を開始。警視抜刀隊は、薩軍と互角に渡り合う。のちにこの時の抜刀隊の功を称えて有名な抜刀隊の歌が作られた。
しかし、横平山を占領することは、とうとうできなかった。
官軍、横平山を占領する
翌日3月15日、官軍は薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。
3月17日、官軍は西側と正面からの攻撃を開始。しかし、地形をうまく生かして戦う薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。
この間、3月14日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も約2,000名にものぼる。
官軍、開戦以来の総攻撃
20日早朝、官軍は開戦以来、最大の兵力を投入。攻撃の主力隊は豪雨と霧に紛れながら、谷を越え、田原坂付近に接近した。
そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。砲撃が止むと同時に、薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。
薩軍は官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、状況が把握できないまま、防戦一方にまわらざるをえなかった。
官軍の攻撃を成功に導いたのは、別働の吉次峠部隊の活躍が大きい。吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。これによって官軍主力は「田原坂突破」の一本に的を絞ることが出来た。
しかし、吉次峠部隊の被害は甚大で、駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。
薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなり、植木方面に敗走した。
死闘のあと
官軍と薩軍の、田原坂での死闘は17日間続いた。毎日32万発の弾が乱れ飛ぶ。空中で弾と弾が衝突する「かちあい弾」が、田原坂資料室に展示されている。日露戦争(旅順)のときでも、弾丸の消費量は1日30万発と言われている。
3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも、現地では当時の銃弾が、田畑や斜面からしばしば発見されている。
薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長・篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。官軍も3月20日の戦死者だけで495名にのぼる。田原坂の戦いの激しさは、官軍の小隊長30名のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。
こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。