山鹿市
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薩軍本陣跡 山鹿豊前街道
現山鹿ホテル前にある看板です。
「西南の役山鹿口の戦い 薩軍本陣の跡」
明治10年(1877年)に起きた西南の役で、山鹿口の戦いは、田原坂の戦いと並ぶ激しいものでした。西郷隆盛は、福岡方面から南下してくる政府軍を阻止するため、山鹿を重要な戦略拠点とし、豪将桐野利秋率いる四番大隊を山鹿に差し向け、本陣を敷きました。
薩軍が山鹿に入ってきたのは同年2月25日です。それから、数回にわたる激戦を経て、3月20日に田原坂が落ち、薩軍が山鹿を撤退するまでの24日間、ここが作戦基地となりました。本陣は梅の井旅館(山鹿ホテルの西隣)に置かれ、桐野利秋は、戦いの前半、ここにいました。3月21日には、政府軍が山鹿入りします。本営は薩軍がいた梅の井旅館にそのまま置かれ、山鹿口の戦いは終焉を迎えました。
宮崎滔天(とうてん)の著書「熊本協同隊」には、「山鹿は有名なる温泉場なり、すなはち食うに佳肴あり、飲むに美酒あり、加うるに人民の歓迎を以ってす。人々をしてそぞろに賊軍をうらやむの念を生ぜしむ」と薩軍を歓迎した様子が書かれています。
薩軍が山鹿にいたこの間に、日本最初の民権政治がおこなわれました。平川惟一(のぶかず)、宮崎八郎らで組織する熊本協同隊は、西南戦争が勃発すると、薩軍と一緒に参戦します。そそて、山鹿に彼らが理想とした民権政府を作り、地元の野満長太郎を民政官に選出しました。普通選挙により人民総代を選び、総代により町の円滑な政治が行なわれました。しかし、この試みも薩軍や熊本協同隊の山鹿撤退と同時に崩壊しました。
熊本と福岡を結ぶ豊前街道は、当時は戦略的に重要な意味を持つ街道でした。その街道沿いの山鹿もまた、重要な戦略拠点です。山鹿の豊前街道は現在も残り、昔の古い建物も残る、風情のある様相が、往く人の目を楽しませます。
また、八千代座、山鹿灯篭民芸館(元安田銀行・有形文化財)などが現存しています。
「西南の役山鹿口の戦い 薩軍本陣の跡」
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現山鹿ホテル前の看板 |
薩軍が山鹿に入ってきたのは同年2月25日です。それから、数回にわたる激戦を経て、3月20日に田原坂が落ち、薩軍が山鹿を撤退するまでの24日間、ここが作戦基地となりました。本陣は梅の井旅館(山鹿ホテルの西隣)に置かれ、桐野利秋は、戦いの前半、ここにいました。3月21日には、政府軍が山鹿入りします。本営は薩軍がいた梅の井旅館にそのまま置かれ、山鹿口の戦いは終焉を迎えました。
宮崎滔天(とうてん)の著書「熊本協同隊」には、「山鹿は有名なる温泉場なり、すなはち食うに佳肴あり、飲むに美酒あり、加うるに人民の歓迎を以ってす。人々をしてそぞろに賊軍をうらやむの念を生ぜしむ」と薩軍を歓迎した様子が書かれています。
薩軍が山鹿にいたこの間に、日本最初の民権政治がおこなわれました。平川惟一(のぶかず)、宮崎八郎らで組織する熊本協同隊は、西南戦争が勃発すると、薩軍と一緒に参戦します。そそて、山鹿に彼らが理想とした民権政府を作り、地元の野満長太郎を民政官に選出しました。普通選挙により人民総代を選び、総代により町の円滑な政治が行なわれました。しかし、この試みも薩軍や熊本協同隊の山鹿撤退と同時に崩壊しました。
山鹿市教育委員会
熊本と福岡を結ぶ豊前街道は、当時は戦略的に重要な意味を持つ街道でした。その街道沿いの山鹿もまた、重要な戦略拠点です。山鹿の豊前街道は現在も残り、昔の古い建物も残る、風情のある様相が、往く人の目を楽しませます。
また、八千代座、山鹿灯篭民芸館(元安田銀行・有形文化財)などが現存しています。
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現在の豊前街道(山鹿市) |
八千代座 |
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山鹿灯篭民芸館 |
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