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玉名市

官軍、南下を急ぐ

2月24日、久留米で木葉の敗戦報告を聞いた、官軍第一旅団・野津鎭雄少将と、第二旅団・三好重臣少将は、三池街道に隊の一部を派遣し、南下を急いだ。第十四連隊・乃木希典少佐は石貫に進む一方で、高瀬方面へ捜索を出した。

2月25日、乃木希典少佐の第十四連隊は、山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃した。うち、山鹿街道を進んだ部隊は、薩軍・野村忍介の5箇小隊と対戦。一方、高瀬道を進んだ部隊は、薩軍と戦闘をすることなく高瀬を占領する。



高瀬川の激戦、始まる

2月25日、山鹿、植木、伊倉に兵を配置した薩軍に対し、官軍の征討旅団は南関に本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送った。

官軍が高瀬川の線に陣をしくのを見た薩軍は、高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、また別の隊は川を渡って、迫間・岩崎原を攻撃した。しかし薩軍は、官軍の射撃に苦しみ、加えて官軍の増援部隊に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。



薩軍、高瀬方面へ北進

2月26日、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。薩軍主力はここで山鹿方面、植木・木葉方面、吉次・伊倉方面の3方面に分かれ、高瀬に進撃しつつある官軍を挟撃する計画でいた。

これに対し官軍は、薩軍主力の北進を知らなかった。捜索隊の報告と各地からの急報で、初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに、三好重臣旅団長自ら迫間に進出した。激しい銃撃戦、接近戦が行われ、三好重臣少将は銃創を負った。



官軍、稲荷山を占領、高瀬の激戦を制す

2月26日午前10時頃、薩軍の桐野利秋率いる山鹿方面隊は迂回して、石貫にある官軍背後の連絡線を攻撃。官軍側は、増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。

稲荷山を占領した官軍は、何度も奪取を試みる薩軍を銃撃して退けた。次いで、南下してきた官軍の兵が、右側面を衝いたので、さすがの猛将・桐野利秋率いる薩軍も堪らず、江田方面に退却。

稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であり、ここをめぐる争奪戦は、西南戦争の天目山とも言われている。


援軍を得た官軍は、反撃に出る。薩軍も、敵前渡河を強行するなどして、高瀬の奪回を試みたが官軍の増援に押され、日没もせまり、大浜方面へ退却した。疲労した官軍には、追撃する余裕もなかった。

この方面の戦闘は激戦で、戦死した薩軍諸将の中には、西郷小兵衛(西郷隆盛の実弟)がいた。薩軍一番大隊一番小隊長として自ら陣頭指揮をとり、弾丸に胸を貫かれて壮絶な最期をとげた。

兄・西郷隆盛は、熊本市に運ばれてきた小兵衛の遺体を見て、瞬きをしただけで終始無言であった。