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八代市

官軍、衝背軍を八代へ派遣する

官軍南下軍は、2月の高瀬の戦いのあと、薩軍の背後をつくために衝背軍を派遣して、八代に上陸させることとした。その目的は、

・熊本鎮台との連絡をとること
・薩軍の鹿児島との補給・連絡を遮断すること
・薩軍を腹背から挟撃すること

等であった。黒田清隆中将が参軍となり、この上陸衝背軍を指揮することとなった。



官軍衝背軍の上陸と、八代占領

最初の衝背軍は3月18日、長崎を出発して八代に向かった。

この旅団は3月18日、艦砲射撃に援護されて日奈久(ひなぐ)南方と八代の薩軍背後に上陸し、薩軍を2方向から攻撃して八代の占領に成功した。

20日には黒田清隆参軍率いる1箇大隊半と警視隊500名余が日奈久に上陸。薩軍では、なんら効果的な防御ができなかった。



氷川の激戦

官軍の八代上陸の報を得た薩軍は、熊本包囲軍の一部を割き、永山弥一郎が隊を率いて八代に飛ぶ。

3月20日、薩軍の先遣隊と官軍は氷川を挟んで激戦し、薩軍は対岸に進出した。

しかし、翌21日には増援を得た官軍が押し返し、薩軍を砂川に退却させた。
22日、黒田清隆参軍は宮の原に出て、薩軍と激戦。増援を得た薩軍と官軍の戦闘は24、25日と続き、戦況は一進一退した。

3月24日、長崎を出発した官軍の別働旅団が、25日午後、八代に上陸した。



薩軍、兵力を徴集し、官軍の背後を衝く作戦

このころ、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野利秋の命で淵辺群平・別府晋介・辺見十郎太らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。

3月25、26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、官軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、熊本にいる薩軍との合流ができなかった。

よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の官軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦をとることとなった。



薩軍、八代を急襲

4月4日、薩軍は、人吉から球磨川に沿い、あるいは舟で下って八代南郊に出た。

まず坂本村の官軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫った。しかし、7、8日の官軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。

4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって官軍が一時敗退したが、13日に官軍に援軍が投入され、薩軍・官軍ともに引かず、4月17日までこの状態が続いた。

17日、薩軍の右翼をつく官軍の作戦が成功して、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき薩軍・協同隊の宮崎八郎が戦死、別府晋介が足に重傷を負った。



薩軍・宮崎八郎の戦死

宮崎八郎は、自由民権の壮士である宮崎とう天の兄である。彼は、熊本協同隊の参謀長として薩軍を援助した。

八代の薩軍が危ないとの状況の中で、熊本市にいた宮崎八郎は、八代の薩軍・辺見十郎太のもとに来、死を決して辺見隊の一員となった。

4月6日、薩軍は押され、先を争って球磨川へ飛び込む。堤防の上から官軍が撃つ。川が真っ赤に染まる。

宮崎八郎は、辺見十郎太に、「自分に任せろ」と告げて指揮旗を持って身代わりとなり、堤防の上に仁王立ちになった。弾が当たった。宮崎八郎の懐には、ルソーの民約論が抱かれていた。弱冠、27歳であった。

宮崎八郎の恋人、浪子は、八郎の死を聞き、熊本から八代に赴いて、球磨川河畔をさまよい続けた。