人吉方面
薩軍、三州(薩摩・大隈・日向)盤踞策の本拠を人吉とする
4月20日、薩軍は、矢部(現山都町)に退いた。西郷隆盛もここに入り、薩軍の主力が矢部に集結した。もうこのときは総勢3,000余名になっていた。
最盛期には4万を超えた薩軍も、総帥西郷の回りにこれだけの人数しか残らなくなっていた。
本営をここの酒造家備前屋に構えた。今の通潤酒造である。
4月21日、薩軍は矢部浜町の軍議で、三州(薩摩国・大隅国・日向国)盤踞策をとること、人吉をその根拠地とすることなどを決めた。即日、薩軍は全軍を二手に分け、椎原越えで人吉盆地へ退却した。
薩軍、人吉に入る
4月27日、人吉盆地に入った薩軍は本営を人吉に置いた。
4月28日に江代に着いた桐野利秋は、ここに出張本営を置き軍議を開いた。江代軍議で決められたのは、人吉に病院や弾薬製作所を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐次実行に移された。
神瀬方面~薩軍の一箇中隊、官軍に下る
5月8日、薩軍は神瀬箙瀬方面に向かった。
官軍との戦闘は5月9日に始まったが、5月15日には、薩軍の1箇中隊が官軍に下るという事件が起きた。
これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら6月頃まで続いた。
万江方面~人吉に通じる要衝、万江越道をめぐる戦い
5月19日、官軍は人吉に通じる万江越道の要衝、水無・大河内の薩軍を攻撃した。
これを迎え撃った薩軍は、いったん鹿沢村に退き、5月21日に水無・大河内の官軍に反撃をしかけたが、勝敗を決することができず、再び鹿沢村に引き揚げた。
5月28日、今度は官軍が鹿沢村の薩軍を攻撃した。常山隊は必死に防戦したが、弾薬がつきたために内山田に退き、翌日29日に大村に築塁し、守備を固めた。
大野方面~薩軍、材木村と一ノ瀬で官軍を退ける
5月5日、田ノ浦に官軍が上陸。
5月6日、官軍が材木村を攻めたので、薩軍はこれを迎え撃ち、一旦は佐敷に退却させることに成功した。
しかし5月9日、官軍は再び材木村の薩軍を攻めた。激戦がおこなわれたが、薩軍は敗れ、長園村に退いた。
また、5月9日、一ノ瀬の薩軍は官軍の襲来に苦戦しつつも材木村まで到達し、材木村の薩軍と共に塁の奪還に成功した。
さらに5月9日、薩軍は湯ノ浦の官軍を攻めたが失敗し、大野に退却した。
5月16日、官軍が一ノ瀬の薩軍を攻撃した。薩軍は苦戦したが、大野からきた援軍により官軍を退けることができた。
大野方面~薩軍、久木野で圧勝
5月20日、官軍が久木野に進入したが、薩軍の襲撃にあい、退却させられた。この戦いは薩軍の圧勝となり、銃器や弾薬、その他の物品を多く得た。
5月22日、薩軍は久木野に進撃し、官軍を退けた。
人吉攻防戦~官軍、人吉へ迫る
5月3日~7日までの宮藤の戦い、5月10日~14日までの平瀬の戦い、5月21日の横野方面の戦いでは、官軍が薩軍を襲撃し、敗走させた。
一方、尾八重を守っていた薩軍は岩野村を守備し、5月22日、前面の官軍を襲撃し敗走させた。さらに追撃しようとしたが弾薬が不足していたので、米良の西八重に退却した。
官軍は、7つの街道から球磨盆地に攻め入る作戦をたて、5月1日~9日までこの作戦を遂行した。
まず前衛隊は球磨川北岸沿いを通る球磨川道、南岸沿いを通る佐敷道から攻めた。しかし街道は、大部隊が通るには困難な地形であり、官軍は各地で薩軍に敗退した。
しかし薩軍も、人員・物資の不足により、次第に勢いがなくなった。官軍はそこを突いて5月12日、球磨盆地の北部にある五家荘道などの5つの街道から南下し始めた。
薩軍の球磨川北部の守りが薄かったので、官軍は12日~25日までの13日間に、五木荘道の頭治・竹の原、球磨川道の神瀬、種山道、仰烏帽子岳など多くの要地を陥落させた。
薩軍、宮崎支庁を占領する
この頃、桐野利秋は、宮崎から鹿児島方面、および豊後等の軍を統監していたが、ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、5月28日に軍務所と改称した。
官軍の侵攻で危険が目前に迫った人吉では、村田新八らが相談して、西郷隆盛の安全をはかるために、5月29日、池上四郎に随行させて、狙撃隊等2,000名の護衛で宮崎の軍務所へ移動させた。
5月31日に西郷が軍務所に着くと、ここが新たな薩軍の本営となり、軍票(西郷札)などが作られ、財政の建て直しがはかられた。
人吉攻防戦~官軍、人吉へ進撃、薩軍・淵辺群平の戦死
官軍の主力部隊は5月30日、五家荘道・照岳道などから、人吉に向かって進撃した。
これと戦った薩軍は各地で敗退し、五家荘道の要地である江代も陥落した。
薩軍が敗退し、危機に陥ったことを聞いた人吉の薩軍は、球摩川に架かる鳳凰橋に向かった。しかし、官軍の勢いは止められず、橋を燃やしてこれを防ごうとした淵辺群平は、銃撃を受けて重傷を負い、吉田に後送されたが亡くなった。
人吉攻防戦~官軍、人吉に突入
6月1日早朝、官軍が次々と人吉に突入した。そして村山台地に砲台を設置し、薩軍本営のあった球磨川南部を砲撃した。
これに対し薩軍も、人吉城二ノ丸に砲台陣地を設け対抗した。しかし薩軍の大砲は射程距離が短いため、逆に永国寺や人吉城の城下街を焼いてしまった。
この戦いは3日間続いた。
薩軍本隊は大畑などで、大口方面の雷撃隊と組んで戦線を構築し、官軍のさらなる南下を防ごうとしたが失敗。堀切峠を越えて、飯野へと退却した。こうして人吉は官軍の占領するところとなった。
その後、薩軍の本隊から残された部隊が、官軍の勧告を受け入れ次々と降伏した。人吉隊の中にはのちに官軍に採用され軍務に服したものもあった。