大口方面
薩軍、辺見十郎太を大口へ派遣
4月22日に、雷撃隊 (13中隊、約1300名)の指揮長に抜擢された、薩軍の辺見十郎太は、日ならずして大口防衛に派遣された。
これに対し官軍は5月4日、大口攻略のため兵を派遣した。この部隊は途中、小河内・山野などで少数の薩軍を撃退しながら大口の北西・山野まで進攻した。
薩軍・電撃隊の奮戦、「第2の田原坂」
辺見十郎太は官軍を撃退すべく大口の雷撃隊を展開した。
5月5日、雷撃隊と官軍は牛尾川付近で交戦したが、雷撃隊は敗れ、官軍は大口に迫った。辺見十郎太は雷撃隊を中心に他の諸隊を加え、大塚付近に進み、8日の朝から久木野本道に大挙して攻撃を加え、官軍を撃退した。押されて官軍は深渡瀬までさがった。
久木野・山野を手に入れた辺見十郎太は5月9日、自ら隊を率いて官軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩境を越えて追撃した。
5月11日、雷撃隊は水俣の間近まで兵を進め、大関山から久木野に布陣した。
人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた薩軍も、佐敷を攻撃した。
12日、官軍に押される他の薩軍の中で、雷撃隊は圧倒的に優る官軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわれるほどの奮戦をした。これを見た官軍は増援を決定し、佐敷、水俣へ兵を派遣した。
官軍、圧倒的物量を兵力を注ぐ
官軍は5月23日、矢筈岳へ進攻し、圧倒的物量と兵力で薩軍を攻撃した。ここを守る薩軍は奮戦したが、支えきれずに撤退した。
対して26日未明、薩軍の攻撃隊約60名が矢筈岳の官軍を急襲したが、官軍の銃撃の前に後退し、薩軍はやむなく大口へと後退した。
人吉陥落後、薩軍、大畑へ 大口の電撃隊、奮闘
6月1日、三洲盤踞の根拠地となっていた人吉が陥落し、薩軍本隊は大畑へ退いた。
6月3日に大関山へ、官軍の2方面からの総攻撃が始まった。官軍の正面隊は原生林に放火しながら進撃した。雷撃隊はこれらを激しく迎撃したが、2面攻撃に耐え切れず、大口方面へ後退した。これを追って官軍は久木野前線の数火点および大関山・国見山を占領した。
6月7日に久木野が陥落し、薩軍は小河内方面に退却した。翌日、官軍はこれを追撃して小河内を占領した。
6月13日、山野が陥落。官軍は大口へ迫り、人吉の官軍旅団は、飯野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩軍本隊に攻撃を加えた。結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。
大口陥落、電撃隊撤退「十郎太の涙松」
官軍は6月17日、八代で大口方面に対する作戦会議を開き、薩軍全面追撃の手筈が整えられた。
6月18日、官軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率いる辺見十郎太は砲弾の雨の中、必死に官軍をくい止めていた。だが、郡山・坊主石山が官軍の手に落ち、高熊山に籠もっていた薩軍の部隊・熊本隊が完全に包囲された。
官軍は6月20日、高熊山の熊本隊と、雷撃隊が占領する大口に攻撃を加えた。この時の戦闘では塹壕に拠る、薩軍得意の抜刀白兵戦が繰り広げられた。
しかし、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃の中、寄せ集め兵士の士気の激減と敵軍の圧倒的な物量で、さしもの辺見指揮下の部隊も敗れ、遂に大口は陥落した。
雷撃隊が大口から撤退することになった時、辺見十郎太は祠の老松の傍らに立ち、覚えず涙を揮って「私学校の精兵をして、猶在らしめば、豈此敗を取らんや」(『西南記伝』辺見十郎太伝)と嘆いたと言われる。これが有名な「十郎太の涙松」の由来になった。
6月25日、雷撃隊は大口の南に布陣し、曽木、菱刈にて官軍と戦ったが敗退し、他の薩軍とともに、南へと後退していった。ここに大口方面における約2ヶ月もの戦いに幕は下りた。