死闘のあと
官軍と薩軍の、田原坂での死闘は17日間続いた。毎日32万発の弾が乱れ飛ぶ。空中で弾と弾が衝突する「かちあい弾」が、田原坂資料室に展示されている。日露戦争(旅順)のときでも、弾丸の消費量は1日30万発と言われている。
3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも、現地では当時の銃弾が、田畑や斜面からしばしば発見されている。
薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長・篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。官軍も3月20日の戦死者だけで495名にのぼる。田原坂の戦いの激しさは、官軍の小隊長30名のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。
こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。