城東会戦~関ケ原の戦以来最大の野戦
4月20日黎明、官軍は、薩軍右翼の大津に進撃したが、薩軍・野村忍介の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。
また、現在の熊本市東部方面を中心に、以下のような激戦が繰り広げられる。
4月19日、官軍は連繋して健軍地区の薩軍を攻めた。薩軍は健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退くが、援軍が到着し、逆襲して官軍を撃破した。官軍も援軍を得たが、苦戦をいかんともしがったかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍を押し返したが、薩軍優位のまま日没になった。
また、官軍の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。猛烈な火力を集中して、薩軍の先陣を突破し、後陣に迫ったが、中島健彦が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた官軍は、ようやく包囲を脱して後退した。
長嶺地区の薩軍・貴島清は抜刀隊を率いて勇進し、官軍主力の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県有朋参軍は官軍苦戦、薩軍が熊本に突出する虞れあり、との報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊を戦線に投入するありさまであった。
薩軍最左翼の御船には、熊本に入った官軍と入れ替わる形で、薩軍・坂元仲平指揮の諸隊が進駐していた。官軍は4月17日、御船を攻めた。薩軍はこの攻撃は退けた。しかし、それに続く官軍からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。
4月19、20日に官軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に薩軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には薩軍最右翼、大津の野村部隊も退却したので、翌21日早朝、官軍は大津に進入し、続けて薩軍を追撃して小戦を重ね、木山に進出した。大津には官軍第三旅団が進出してここに本営を移した。
この一連の「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。だが官軍は、最右翼の大津と、最左翼の御船から、薩軍本営の木山を挟撃できる情勢になった。
桐野利秋は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺吉十郎の必死の説得で、桐野はついに撤退して本営を東方の矢部浜町へ移転することにし、自ら退却の殿りをつとめた。
こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も後退せざるを得なくなった。関ヶ原の戦い以来、最大の野戦であった「城東会戦」はこうして、わずか一日の戦闘で決着がついた。