大口陥落、電撃隊撤退「十郎太の涙松」
官軍は6月17日、八代で大口方面に対する作戦会議を開き、薩軍全面追撃の手筈が整えられた。
6月18日、官軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率いる辺見十郎太は砲弾の雨の中、必死に官軍をくい止めていた。だが、郡山・坊主石山が官軍の手に落ち、高熊山に籠もっていた薩軍の部隊・熊本隊が完全に包囲された。
官軍は6月20日、高熊山の熊本隊と、雷撃隊が占領する大口に攻撃を加えた。この時の戦闘では塹壕に拠る、薩軍得意の抜刀白兵戦が繰り広げられた。
しかし、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃の中、寄せ集め兵士の士気の激減と敵軍の圧倒的な物量で、さしもの辺見指揮下の部隊も敗れ、遂に大口は陥落した。
雷撃隊が大口から撤退することになった時、辺見十郎太は祠の老松の傍らに立ち、覚えず涙を揮って「私学校の精兵をして、猶在らしめば、豈此敗を取らんや」(『西南記伝』辺見十郎太伝)と嘆いたと言われる。これが有名な「十郎太の涙松」の由来になった。
6月25日、雷撃隊は大口の南に布陣し、曽木、菱刈にて官軍と戦ったが敗退し、他の薩軍とともに、南へと後退していった。ここに大口方面における約2ヶ月もの戦いに幕は下りた。